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   旅の終わり

走行距離 11330km
訪問都市      41

Florina
(ギリシャ)

 

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* 突然の、あっけない幕切れ


どしゃぶりのなか、山を越え、一路、旧ユーゴスラビアとの国境を目指すが…


FYROM、マケドニア(旧ユーゴスラビア)に誘導する看板。なぜこんな長い略称のなのかは本文を参照


こんなに広くゆったりした道路で、なぜ事故が…


さらば、我が愛しのシトロエン(18歳)


88年からの総走行距離は24万6923キロ。本当によくがんばってくれた


山の上に十字架がある。夜にはライトアップされる


こんな教会もある


この家の持ち主に比べれば、ぼくはまだまだラッキーだ


鉄道の駅だが、線路はもうない。廃線かな?と思ったら、エデッサまではバスで行くのだそうだ


川の流れ


ギリシャはナンバープレートのない車が多すぎる


いくらなんでも取り締まらないといけないのではないかいな?

朝からどしゃぶりだった。すでにさまざまな天候をこのテントの中で経験してきたが、これほど激しい雨は初めてだった。はね上がった泥がテントを汚す。洗面所に行くまで、ほんの10秒だが、ずぶぬれになってしまう。

それに、寒い。ギリシャでも北部は冷え込む。テントを叩く雨音を聞きながら、今日はこのまま寝ていようかな、そう思った。まる一日を休みにあてた日は今までなかったし、自分では元気なつもりでも、疲れがたまっているかもしれない。

だが、すでに予定が押している。ここでゆっくりしていると、旧ユーゴスラビアが紛争からどう立ち直ったかを見る時間がなくなってしまう。

そう思い、ぼくは立ち上がり、雨に濡れながらテントを畳んだ。

このキャンプ地のオーナーは本当に親切だった。少し安くしてくれたし、メテオラの風景を描いた小さなポスターをくれた。

この日は日曜日なので、道は非常にすいていた。来る時にはつらい思いをした山道も、マイペースで楽に越えることができた。山を越えれば、後は平坦な道が続く。

この後は、マケドニア(旧ユーゴスラビア)のオフリドという街を訪ねるつもりだった。湖畔の美しい街で、キリル文字の生まれた場所だそうだ。走行距離は300キロ弱の楽な道のりだ。

オフリドの次は、アルバニアを走り抜け、一気にクロアチアのドブロブニクに滞在。スロベニアを通り抜けてオーストリアで文明に復帰、そういうプランを考えていた。

あまりに楽な道乗りというのがぼくを油断させたのだろうか。

マケドニア(旧ユーゴスラビア)との国境まであとわずかのフロリーナという街で、事故に遭ってしまった。

出会い頭というのか、魔が差したというのか、交通量の少ないゆったりとした道で、猛スピードで走る別の車の側面にぶつかったのだ。

怪我人がなかったのは幸いだった。ぼくは衝撃すら感じなかった。静かに吸い込まれるように車が止まった、そんな風に記憶している。フロントがぐにゃりとへしゃげることによって、衝撃を吸収し、ぼくを守ってくれたのだ。

その代わり、18歳のシトロエンは臨終した。フロントがここまでつぶれてしまっては、手のほどこしようがない。足元には冷却水が勢いよく流れていた。

地元の人が警察を呼んでくれた。意外なことに、警察は非常に手際がよかった。ほんの2分で到着。2人の警察官がいたが、英語がわからないので、別の若い警官を呼んでくれた。

通りすがりの人たちも大勢でぼくたちを取り囲み、「怪我はないか?」「ここは事故が多いんだ」「これからどうするつもりだい?」などと、片言の英語で話しかけてくれた。

調書の作成もすぐに終わった。ここでの事故はすでに今年だけで17件発生しているそうだ。「君が18件目だ」と言っていた。

事故車を押して路肩に停めると、彼らは、「グッドラック」と言いながら、去っていった。

取り残されたぼくは、さあ、これからどうしようか、と考えていた。とりあえずはここに一泊しなければならないだろう。車の中の大量の荷物も整理しなければならない。車を失ったのなら、もうこれだけの荷物を持って旅を続けるのは無理だ。大部分は捨て、大切なものは小包で送ることにした。

そんな風にたたずんでいると、若いギリシャ人の青年が近寄ってきた。

彼は事故現場のすぐ横のマンションに住んでいる両親を訪れているところで、事故の話を聞いて様子を見に来てくれたのだった。普段はロンドンで言語学を学んでいて、日本語も少し勉強したことがあるのだそうだ。

「これからどうするのか」と聞くので、「とりあえず、今夜はこの街に泊まるしかない」と言うと、「友人に詳しいのがいるから」と、電話をして安いホテルを探してくれた。

事故現場は街の入り口に相当する場所で、中心部から歩いて10分はかかる。ホテルまで重い荷物を持っていくのは大変だろうと、お姉さんを呼び出して車で連れて行ってくれた。

携帯電話の番号を教えてくれて、「困ったことがあったらいつでも連絡をくれればいい」と言いながら、ふたりは去っていった。

ぼくは本当に多くの人に助けられながら生きている。日本にいてもきっとそうなのだろうが、旅に出ると特にそのことを思いしらされる。

荷物を部屋に運びこむと、どっと疲れが出てきた。だが、眠りこむ前に、保険会社に連絡しなければならない。ぼくの保険はフランスのもので、ヨーロッパ全域で有効なグリーンカードを持っている。

こういった連絡を英語やフランス語で行わなければならないというのは、とても大変なことだ。だが、ぼくの語学力はずいぶんと上達していて、なんの問題もなかった。

保険会社はさすがにプロで、すぐにギリシャの協力会社に連絡を取り、ぼくの車の移動や処理について話を進めてくれた。ホテルの代金も払ってくれるという。ただ、車は安全な場所にあるので、移動は明日の朝ということでお願いした。

ちなみに、こちらから電話をかける時は、国際通話用のテレカで公衆電話からかけている。携帯電話も持っているが、フランスの外からかけるととても高いのだ(国によるが、最低1分1ユーロ)。着信しても、国外分はぼくの負担になるので、携帯でやり取りをするだけで相当な出費になってしまう。

車に置き忘れたものがあったので、散歩がてら取りに行った。すると、マンションのベランダからぼくを見つけたのか、例のギリシャ人の青年が下りてきた。

近くの公園に座って、あれこれ話をした。彼はギリシャ人のぶっきらぼうなコミュニケーションが好きでなく、日本人の穏やかな礼儀正しさにひかれているのだそうだ。

そうこうしているうちに、彼のお母さんとお姉さんがやってきた。食後の一杯を楽しもうと、街に出るのだそうだ。ぼくは車の中から持っていけないもので、まだ役に立ちそうなものを彼らにあげた。非常用のトライアングルやバッテリーの接続ケーブルなど、捨てるよりは彼らに役立ててもらえればいいだろう。

ぼくも車に乗せてもらい、いっしょに街外れのおしゃれなカフェまで行った。

「このカフェに来た日本人は君が初めてだってさ」

「この街で交通事故を起こした日本人も君だけだろう」

「そもそも、この国境を車で越えようとした日本人が今まで何人いたことか」

彼らは、ぼくがギリシャの文化に詳しく、特に古代マケドニアの歴史をたどってきたことをとても喜んでいた。マケドニア(旧ユーゴスラビア)との国名をめぐる問題をぼくが知っていることにも驚いていた。

ユーゴスラビア連邦が解体した時、南部の小さな国がマケドニア共和国を名乗った。そのことにギリシャは猛反発し、経済制裁まで発動した。というのも、古代マケドニア人はギリシャ人であり、その中心地はギリシャ北部だったからだ。

「マケドニアを名乗っている連中はスラブ系だ。やつらは我々の歴史と伝統を盗んだんだ」

この問題は、国名を「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」と改称し、国旗から古代マケドニアの紋章を外すことで一応の解決をみた。

ヴェルジーナのミュージアムでも、「墓石にギリシャ文字でギリシャ人の名前が刻まれていることからも、彼らはギリシャ人の一派であったことがわかる」と明記されていたのは、そういう事情があるからだろう。歴史と政治は、こんな風に結びつくことのだ。

ギリシャと旧ユーゴスラビアとは、あまり良好な関係ではない。ぼくがその一帯を訪れようとしていることを心配していた。特にアルバニアの治安状況は芳しくないのだそうだ。

さらに、この街からマケドニア(旧ユーゴスラビア)に向けて国境を越えるのは、自分の車がないと無理だそうだ。ヒッチハイクは禁じられているのでなかなか拾ってくれないし、もし国境を越えても向こう側でまた車を見つけなければならない。タクシーを使うととても高くつく。

この後、どこに行くか、ぼくは迷っていた。テッサロニキからマケドニア(旧ユーゴスラビア)の首都スコピエに行く電車やバスはある。テッサロニキから飛行機でフランスに、それが一番安くて楽な道のりだ。もうそろそろ帰ってもいいかな、という気もする。

いずれにせよ、この街から国境を越えるのはあきらめた。テッサロニキに行ってから考えよう。そう言うと、テッサロニキの乗り合いバスの切符をくれた。

そんな感じで、ぼくたちはずいぶんと遅くまで話をしていた。

それから、ぼくはまだ気持ちが落ち着かなかったので、事故現場に舞い戻っていた。たまたま、保険会社のギリシャ側の協力企業から電話があり、「車を取りに行きたいが、正確な場所を教えてくれ」と言われた。

ギリシャの住所はギリシャ文字なので、伝えるのはとても難しい。先ほどの青年から通りの名前を聞いておいたのだが、それだけでは通じない。困っていると、すぐそばにキオスクがあるではないか。キオスクというのは、道路脇の小さな小屋で煙草や雑誌、お菓子や飲み物を売っている、コンビニのような存在なのだ。

ここのおじさんに携帯電話を渡して、「ここがどこか説明してください」と頼んだ。きょとんとしながらも、ギリシャ語で説明してくれた。

電話を切ってからおじさんと少し話をした。

「実は今日、事故に遭ったんですよ」

「知ってる。見た。ここは、事故多い。道が悪い。狭い方の道が優先になっている。おかしい」

翌朝、現地の保険会社との約束の10時に事故現場に行くと、電話がかかってきた。これからホテルに迎えに行くとのことだ。仕方がないので、歩いてホテルに戻った。

しばらくすると、人のよさそうなおじさんが、おそろしく汚いライトバンで迎えに来てくれた。彼の整備工場は事故現場のすぐそばだった。

彼のオフィスで現地の保険会社とのやり取りや、書類の作成を行った。国外で車を捨てるというのはなかなか面倒な手続きが必要なのだ。それでも、同じEU圏だから、関税の問題が発生しない分、まだ簡単だった。彼はギリシャ語しか話せないので、そちらの方が苦労した。書類も全部ギリシャ語だ。

しばらくすると、フランスの保険会社から携帯電話に連絡があった。この保険会社は、ぼくが契約を結んでいる保険会社ではないことが判明したのだそうだ。とんでもないことだ!今まであれこれ手配してくれていたのは、実はまったく無関係の会社だったのだ。

ホテルに帰って契約書をよく見てみると、この会社と結んでいる契約は車のものではなかった。自動車保険は別の会社との契約になっていたのだ。代理店がこの会社の電話番号のシールを車に貼るようと渡してくれたので、ぼくはそちらに電話したというわけだ。

というわけで、非常に複雑な問題が発生してしまった。今までの状況を本来の保険会社に伝えるので、連絡を待つようにとのこと。で、今はホテルの部屋でこれを書いている。

ぼくは自分の保険内容をあまり詳しく知らない。細かな字で書かれた複雑なフランス語を精読するのは骨が折れる。もし、牽引代(実際は牽引していない。友達を呼んで押してもらっていた)や、廃棄代金が、保険でカバーされないなら… ホテル代がカバーされないなら…

というようなのが現状だ。

これまで応援してくださったみなさんに、感謝の気持ちと、お詫びを申し上げたい。

ヨーロッパを一周し、フランスに戻るはずの旅が、輪を閉じずに終わってしまったことを、とても残念に思う。ただ、それがヨーロッパ文明発祥の地ギリシャであったことに、ぼくはある種の符号を感じる。

ぼくはラッキーだったとも思う。多くの人に助けられて、ここまで無事にやってくることができた。それに、もし事故に遭ったのが旧ユーゴスラビアであったなら、こんなにスムーズには処理できなかっただろう。

もしこの交差点を通るのが1秒遅かったなら、ぼくは事故に遭わなかった。だが、もし1秒早ければ、猛スピードで横から衝突されていた。そうなれば大怪我をしていたことだろう。どちらでもない、まさにこの瞬間に交差点に入ったというのは、きっと何らかの偶然のなせる業なのだ。

ぼくは、すべての偶然に意味があると思うし、多くの場合、それは感謝すべきものだと思っている。

いつの日か、この旅を再開できる時が来たなら、ぜひまたこのサイトを訪れていただきたい。

今は、少し休んで疲れを癒し、今までの道乗りを振り返ってみたいと思う。

(2004年 9月26〜27日)

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